Pages

2018/10/30

海沿いの散歩道 🏃

大分駅周辺の区画整理のため生まれ育った市街地を離れ市の東部に位置する大在地区に移転して16年になる。この地は全国一の規模で区画整理が行われたところである。子供の頃海水浴や林間学校で訪れたことがあるがそのころはJRの駅から海水浴場まで一面のミカン畑が広がっていた。60年近くたった今昔の面影は殆ど残っていない。海水浴場は埋め立てられ工場群が立ち並び、畑の跡地は見事に区画整理され民家・アパートが立ち並ぶ県下有数の住宅地となった。そんな中、唯一昔の面影を残しているのが海岸線に沿って数キロに及ぶ防風林である。嘗ては松林であったが今では枯れた松の跡にクス、マテバシイ、ウバメガシ、タブノ木が植えられ鬱蒼と生い茂っている。そしてその中に「遊歩道」が整備されている。腰の手術をしたあと、この遊歩道を毎朝一時間かけて散歩するのが最近の日課となったが真夏の朝日もほとんど遮られ実に気持ちの良い時間を楽しんでいる。自然とかくも素晴らしいものかと改めて思うこの頃である。青い海を職場として四半世紀を過ごした小生には「緑」が心を癒してくれる。嘗て訪れた静岡県の倉沢の棚田、周囲の茶畑とのコントラストが素晴らしく心の和む風景である。恩師と訪れた雲仙の清水の棚田も素晴らしかった。山間に整然と積まれた石垣が何段にも連なり普段見かける段々畑とは一味違った風情である。わが町にも好きな田園風景がある。親友の会社を訪れた際、必ず遠回りをしてそのお気に入りの田園の中を走る道路を左右をキョロキョロ見渡しながら使って帰ることにしている。それほど広くはないが川沿いに広がる田畑の緑がやけに眩いのが心を和ませてくれるのである。360度海また海、夜空には満天の星という生活を離れ22年、そのころの風景が懐かしい気もするが、今では田園風景を眺める時、心が癒される。歳のせいかな?

海洋権益 🚢

集団的自衛権の行使に向けて闇雲に突っ走ろうとしている政府が今問題になっている小笠原諸島周辺の中国船に対して何もしない(何もできない)事への疑問を何故マスコミは大々的に取り上げないのか理解に苦しむ。以前にも述べたように排他的経済水域(EEZ)とは海洋資源、鉱物資源の開発、調査が出来る沿岸国の権利が及ぶ水域である。沿岸国の基線(最低低潮面)から200マイルの水域はそれを有する国の権利が国際法上認められているにもかかわらず政府は「遺憾である」のコメントしかしない。なんと情けないことか! この海域は他国の飛行機や船は自由に飛行、航行ができる。海底電線の敷設も可能であるが資源を荒らしてはいけない。サンゴを狙ってやってくる中国船はことごとく拿捕しなければならない状況にある。何も行動に移せない政府が集団的自衛権でアメリカの要請を断れずズルズルと戦争参加への道を歩むことは容易に推察できる。何時ものことながらなり振り構わぬ中国がアクションを起こし日本の意識、能力がどれほどのものか試しているのであろうが何故早急に対応しないのか国民はもっとこのことに関心を持って欲しいものである。大陸棚が続く限り200マイルを超えても自国のEEZだと主張する恥知らずの中国はこの先何を言い出すか分かったものではないがこのような無謀な行動を阻止できない政府にこの国は守れない。日本国民は今一度自国の領土、領海、排他的経済水域についてしっかり認識して如何に今の政府が無能であるかを知るべきである。基線とは潮が一番引いたとき(最低低潮面)の位置を示すもの。領海とはこの基線から12マイルの海域を指し自国の権利を主張できる海域、そこから12マイルを接続水域、そして基線から200マイルをその国の排他的経済水域というこの基本をしっかり勉強して欲しいと痛切に感じる事件が今起きているのである。

2018/09/10

船舶の走錨事故 ⚓

台風21号が列島を縦断し甚大な被害をもたらしたことは連日のニュースで知ることが出来た。その中で関空の連絡橋に停泊中のタンカーが衝突し、その後の被害を大いに拡散させたことが気になるところである。おそらく海上保安庁と海難審判庁が調査をしてる頃であるが、船長の責任はかなり重いと考えられる。そもそも「走錨」とは、アンカーを投錨(錨を一気に海底に降ろす=放り出す)しアンカーの爪を海底にしっかり咬ませ、その抵抗とアンカーチェーンの鎖の重さで船を支えていたものが、風や波浪の力に負けて船が押し流されることを言う。一旦流され始める(船体が波浪を横から受ける状態で)と二度とアンカーの爪は海底に噛ますことが出来ないのが普通である。このような場合、直ちにエンジンをかけ船首を波浪に向け「揚錨(錨を上げる)」しエンジンの推力を調整しながら位置を保つようにするのが適切な手段である。もっと言えば、これほどの台風が接近するときは、大型船ほど湾内に留まることをせず沖に移動しエンジンのみで時化が静まるのを待つのが常識である。今回の事故?の船舶の所有者、当該船舶の船長には重大な過失があったと認定されるであろう。これも偏に日頃の危機管理能力、意識の低さが引き起こした人災でる。この様なニュースを見ていると、ついつい昔の船乗り時代を思い出す。ベーリング海で風速70メートルの時化の中を一昼夜近く「つかせ=エンジンを全開にし船首を波浪にたたせひたすら時化が収まるのを待つこと」せたこと、西太平洋でハリケーンに遭遇し、幾らエンジンを全開しても波浪の力に負けて船首を風上に向けることが出来ず、横波を受けながら只々成すすべもなく流されたこと等など大自然の力を身をもって体験したことは、現在の「危機管理意識」に少しは役立っているのかもしれない。

2018/05/23

無二の会「佐賀・佐世保・長崎」

3年前にも投稿した「無二の会」、恩師を囲んで年一回の再会を楽しむ会である。13年前、恩師の退官祝い(お疲れ様会)を長崎で開催して以来今年で13回目を迎えた。先生と教え子3人の頭文字(MUNI)が偶然無二になることからこの名前を付けた。今年は先生の出身地である「佐賀」、我が母校の発祥の地である「佐世保」そして学び舎の「長崎」を二泊三日で旅した。初日は佐賀県小城町にある「清水の滝」と鯉料理を楽しんだ後、佐賀維新資料館を訪問した。清水の滝は過去何度か訪れたところであるが「パワースポット「」を感じる大好きなところである。維新資料館ではこれほど佐賀県から明治維新の前後に優秀な人材が輩出されたのかと正直驚いた。二日目は海上自衛隊佐世保基地の中にある「崎辺」の母校跡地の見学をした。きりりとした海上自衛官の案内で嘗て恩師が学んだ校舎(当時の校舎が未だ一棟のみ存在していて驚いた)を見学させてもらった。その後九十九島巡りをしたがこれも懐かしい思い出の地である。そして次に訪れたのが「ニイタカヤマノボレ」の暗号を発信した通信塔(三本柱)、海上からしか見たことのなかった塔であるが現地まで行き塔の中を見学できたのには感激した。次いで西海橋(嘗てこの下をカッター漕いだこれまた思いで深い土地である)、時津港を経由し二日目の宿泊地「ホテル清風:大江戸温泉」についた。二日間の旅であったが夜は懐かしい話を含め先生の用意していただいた旨い酒を飲み深夜まで一年ぶりの再会を楽しむことが出来た。別れ際は決まって「また来年!」何時までも元気で皆さんとお会いできるためにも健康第一の生活を!と誓いながら帰路に就く。人生は楽しい!

2018/03/05

保育園児

通勤途中に見かける景色の中で最も心の和む光景、それは保育園児の姿である。カルガモの行列と言っては失礼にあたるが保育士の後ろをちょこちょこと歩いている姿を見るとついウルウルとするくらいに可愛い!まして園児が小さな乳母車のような乗り物に4~5人がぎゅうぎゅう詰めに乗って3台位が列を作って散歩?してる光景は車を止めて眺めていたくなる位に心の和む光景である。保育園のグランドで無邪気に遊ぶ姿も実に可愛いし保育士さんの仕事は大変だろうけど良い仕事だなあと感謝を含めて感心して眺めている。高齢化社会、少子化と言う言葉を聞いて久しいがこういう園児の可愛い姿を見ているとこの子たちが大人になるころまで少しでも恵まれた環境で育ってほしいと願うのは親御さんはもちろん、保育士さん、園長さんも全く同じであろうと思う。そんな折、小生の主治医であるT先生が「病児保育園」を開園することになった。「ままのて保育園」と言う名前の保育園であるがそういう子供のいる家庭にとっては神の手ほどに助かる施設だろうと、素人ながらにこういう施設を作るT先生の「生きざま」に感心した。ゲスの勘繰りではないが決して採算性を望めるような施設ではない筈なのに地域のため、世の中のためにやろうというまさに「医者の鏡」だと小生の主治医を誇りに思った。世の中「金や色恋」に現を抜かす下品な医者を時々見聞きするが、これからの日本を背負っていく「園児」たちの将来の姿に思いをはせながら通勤途中涙ぐみながらうれしさをかみしめることを楽しみに極力、保育園の近くの道路を通って通勤しそうである。